2012年4月 7日 (土)

「釈尊の生涯」中村元

「釈尊の生涯」中村元 読了。

紀元前5世紀に悟りを開き、仏教の開祖となったゴータマ・ブッダ。
偉大な歴史的宗教者であるが、彼の伝記は長い間存在していなかった。これは個別的な事象より普遍的な理法を重んじる仏教徒の思惟法に由来する。

後代に成立した仏伝には、神格化や誇張が多く見られる。
本書は神格化や誇張を排した仏伝であり、人間ゴータマ・ブッダを炙り出そうと試みる。

著者は歴史的人物であるゴータマを、次のように評し締めくくっている。
「彼の教示のしかたは、弁舌さわやかに人を魅了するものでもなく、また一つの信仰に向かって人を強迫するものではない。異端に対して憤りを発することもない。単調にみえるほど平静な心境を保って、もの静かに温情をもって人に教えを説く。些細なことを語るときにも、非常に重大事を語るときにも、その態度は同様の調子であり、すこしも乱れを示していない。広々としたおちついた態度をもって異端さえも包容してしまう。仏教が後世に広く世界にわたって人間の心のうちに温かい光をともすとこができたのは、開祖ゴータマのこの性格に由来するところがたぶんにあると考えられる。」

「ゴータマはその臨終においてさえも仏教というものを説かなかった、彼の説いたのはいかなる思想家・宗教家でもあゆむべき真実の道である。」

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2012年4月 6日 (金)

「ラーマーヤナ」河田清史

「ラーマーヤナ」河田清史

「ラーマーヤナ」はインドの古典叙事詩である。
古代からの口承物語を紀元前四世紀ごろから前二世紀にまとめられた、といわれている。
ストーリーは主人公ラーマが弟や従者と共に悪魔のラーバナを倒すというお話。
アジア最古の物語であり、現在でもインドや東南アジアでは人々の心に脈々と生づいている。
また、彼等の心を深く理解するには必須であり、美しい物語である。
詩を散文にし、童話風にした本書は、とても読みやすい。

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2012年3月31日 (土)

「日本的霊性」鈴木大拙

「日本的霊性」鈴木大拙 読了。

著者は5年半の禅修行を経て、1897年26歳で単身渡米する、以後膨大な論文を日本語と英語で著し、東洋思想を世界中に宣布した。
戦前の初版では「第五篇 金剛経の禅」が収録されるているが、戦後の版では削除している、戦時における「死への意義」を語っている部分が大いに誤解を受けるからであろう。しかしこの第五篇が最も禅思想の理解を幇助している。

はなはだ無知で軽薄であるが、自分の理解を以下に記してみる。
日本的霊性は大地に由来し、鎌倉時代に仏教や禅を通じて開化する。それは法然、親鸞により体現される。
霊性は体験を重視する。日常生活や日々の信心から悟る。
徹底的な否定から肯定を見出す。
矛盾をそのまま受け入れる。
そのままをそのままと見る知がなくてはならない。この知が悟り。この知が霊性的直感。
十二時に使われるのではなく十二時を使う。

この著作は自分の霊性の成熟度に合わせて、その内容を変えるだろう。
いつか再読したい。

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2012年3月29日 (木)

「北海道の森林」 北方森林学会 編著

「北海道の森林」 北方森林学会 編著 読了。

この本は、北海道の森林をフィールドとする研究者達による論考集である。
その分野は多岐に渡り、この論考集を通じて北海道の森林の姿が立ちあがる。
おおまかなテーマをまとめると以下のようになる。
(1) 人間活動による大気環境の変化,温暖化と森林
(2) 野生動物,害虫研究
(3) 森林の生態系,微生物と物質循環
(4) 森林の機能,資源
(5) 森林再生技術

この中で印象に残った文を掲載しておく、文明社会を生きる私たちに、なんらかの「気づき」を与えてくれる。

『「アイヌ民族と木のかかわり 北原次郎太」
アイヌ民族の思想では、人間が自然に対し優位であったり、自然を征服できたりするとは考えない。
人間が自然の恩恵を受けられるのは、カムイの同意を得られたときである。
狩猟によって獲物を得るには、動物が「獲られてもよい」と思うとこが不可欠であり、猟具の性能や狩猟技術だけでは成功は得られない。
植物を採集することも同じだ。』(P146)
 
私には森林科学の進歩が、未文明社会の「合理性」を明らかにしているように感じる。

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2012年3月20日 (火)

"The Little Prince" Antoine De Saint-Exupery

"The Little Prince" Antoine De Saint-Exupery

This book is my lesson note of English.
I had to found easy a book because my English is very cheap.

But this book is for grown-ups rather for low children.
They are enough funny and interesting.

My learn was write whole the book and translate all.
but I couldn't well translate at some sentence.

Someday when I grow-up I will try to read this book again.

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2012年3月13日 (火)

「選択の科学」シーナ・アイエンガー 

「選択の科学」シーナ・アイエンガー 読了。

第6講の「豊富な選択肢は、必ずしも利益にはならない」これが本書の主題だと思われる。

欧米人に代表される個人主義的な思考は、「選択肢は多ければ多いほど良い」とする傾向が強く。
アジア人など集団主義的な思考は、「選択は制約を受けるほうがより良い」とする傾向が強い。

インドのアイデンティテイも持ち、アメリカで生まれ育った盲目の筆者には、この「選択」についての考え方の違いに、身を引き裂かれたのだと思う。
筆者は心理学研究者としてデータに基づき客観的に「選択」について解析していく。
本書の魅力は、インド的着眼点を欧米式実証主義で書かれているところだろう。
(インドの思考を西洋の言語で翻訳?)

また、多くの名言が絶妙に引用され興味深い。
「一つの扉が閉じれば、もう一つの扉が開く、しかし閉ざされた扉ばかり、未練がましく見つめていると、開いている扉に気づかないことが多い」ヘレン・ケラー
「発明とは、無益な組み合わせを排除して、ほんのわずかしかない有用な組み合わせだけを作ることだ。発明とは見抜くことであり、選択することなのだ」アンリ・ポアンカレ

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2012年3月 9日 (金)

「構造・神話・労働」レヴィ=ストロース

「構造・神話・労働」レヴィ=ストロース 読了。

本書はレヴィ=ストロースが、1977年に来日した時の講演会や対談の記録である。
滞在中の彼は、驚くべき知的探究心や、安易な判断を下さぬ徹底した慎重さ、人と接する時は常に謙虚な態度であったという。

以下抜粋
「構造」とは、要素と要素間の関係となる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する。(p37)

神話と歴史は時間に対してまったく異なる態度をとります。つまり神話にとっては、物事は今日もこの世の始めと同じであるし、また未来においても太古や現在と変わらぬはずのものです。ところが反対に、歴史はわれわれに過去の理解をもたらすだけでなく、現在において人びとを互いに対立させ、さらに、未来の築きかたについても対立させる手段を与えています。一方は「静的・統合的歴史観」であり、他方は「動的・分裂的歴史観」です。(p83)

私たちは誰であろうと偏見なしにものごとを見ることはできないのです。私たちはいつでも偏見をもって見ています。民族学者の仕事は、偏見をもって見ながら、自分に偏見があること、自分の偏見を自覚したこと、自分の偏見が判断に影響をあたていること、だから、その判断を修正しなくてはならないことを、刻一刻と学んでゆくことなのです。(p149)

日本では風景もカリグラフィー(書道)だ。とにかく山の稜線が美しい。(p165)

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2012年2月28日 (火)

「韓国は一個の哲学である」小倉紀蔵 著

「韓国は一個の哲学である」小倉紀蔵 著 読了。

昨今、多くの人が韓国を語り論ずる。
数多の立場と同じ数の韓国像がある。
日本と韓国はあまりに近すぎるため、すぐ感情論や政治的な批評に傾倒する。
私は、他民族や他国家の理解には、相手の視点で考えてみることが不可欠だと考えている。
本書は、韓国人の表面的な理解ではなく、思考法や価値観を知るには最適である。

著者は(理)と(気)の概念を用いて韓国人を分析する。
地政的に韓国は大陸の圧力を常に感じており、敵の存在が理念を高める源となっている。また内と外(ウリとナム)を強力に意識する。

強烈な上昇志向(理)と混沌・抱擁への志向(気)の対比が面白い。

日本と韓国は同じく中国文化や儒教の影響を受けているが、地政学的・民族性の土壌の違いによる相違も興味深い。

日本と韓国は、多くの異なる要素があるが、総じて兄弟のように似ている、理解しあえればこれほど頼もしい他国はないと思うのだが。

韓国を知ると日本についての理解もおのずと深化することに気づいた。

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2012年2月20日 (月)

「つながる脳」 藤井直敬

「つながる脳」 藤井直敬 読了。

現役最先端を走る脳科学者による、研究経過と苦悩が記されている。
語り口は、一般向けにわかりやすく丁寧に書かかれ、研究者の内部事情や本音も見え隠れする。

筆者は被験者を、実験装置に固定するような特殊な状態ではなく、自由度の高い状態での社会性脳研究を目指す。
また、脳研究は一機能を拡大解釈してしまうような、「ヒトがそうあって欲しいという倫理的要請」に陥りやすいことを指摘している。
仮想空間を利用した脳実験や、BMI(ブレインーマシン・インターフェース) はまさにSFの世界であり、実用化もそれほど遠くないように思われ興奮してしまう。

脳研究は地味だが巨大な可能性を秘ており、脳科学者はもっと評価されるべきだろう。

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2012年2月13日 (月)

「日本の文脈」中沢新一 内田樹 

「日本の文脈」中沢新一 内田樹 読了。

人類学者と仏文学者の対談。
この対談は、人類学的な巨視や構造主義的な見方で、現在を読み砕いている。
くだけた感じで話は進行するが、ものの見方の柔軟性を厳しく要求してくる。

P250引用『(内田)複数の要素を分けて処理するのではなく、複数を一つの文脈を生成することによって関係づけられる能力を「頭が丈夫」と呼んでいる。学校教育を通じて涵養すべき知性というのは、知識の量ではなく、頭の回転の速さでもなく「頭が丈夫」というとこじゃないかと思うんです。』

様々な問題を抱えつつ世界を席巻する資本主義経済、未だ全貌が見ない原発事故。
私たちは、世の中で起こっていることを、どのように理解すれば良いのかわからず立ち尽くしている。
先の見えない時代において、考え方の柔軟性「頭の丈夫さ」は必須であり、生存条件となるだろう。

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2012年2月 8日 (水)

「新訳 ハムレット」シェイクスピア

「新訳 ハムレット」シェイクスピア 河合祥一郎 訳。

シェイクスピアを初めて読んだ。
四世紀を隔世する英語古典の代表作。
話は王位をめぐる骨肉の争いである。

長い間、廃れることなく人々の心を通過しえたという事実が、古典の重みを増す。
この戯曲はヨーロッパ人の心の一部を、垣間みることが出来るのではないだろうか。

新訳はリズミカルで読み易かった。

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2012年1月27日 (金)

「川の蛇行復元」 中村太士編

「川の蛇行復元」 中村太士編 読了。

我が国では、戦後の高度成長期(1950~1960年代)に大規模な捷水路工事(ショートカット)や築堤工事が行われ、全国の河川は大きな変貌を遂げた。
これにより河川の形態にも変化が生じている、河床低下が発生し、澪筋は固定され、生態系の多様性も失われつつある。災害防止や土地利用を優先した計画には必ずその代償がある。
本書は北海道の標津川における、工事により直線化された河川を蛇行河川へと復元する事業の「技術的な検討の要約」といえる。
この事業では直線化した河川と蛇行河川を連結し流路を二股にすることで、必要な河積断面を確保し、①防災と②環境復元の両立を図っている。これには連結部分に堰を造り河床高さを調整し、不均一な流水量を振り分けるという非常に繊細な作業が必要となる。モニタリングの継続とフィードバックの繰り返しも必要となるのだろう。
本書は流域における窒素循環、カワシンジュガイやドーベンコウモリの生態などトピックスは幅広い。その幅広さは、この河川について、全てを記述し切れないということを物語っている。

分断された蛇行河川では40年あまりの歳月を経て、新たに多様な生態系を構築しており、再蛇行化はその生態系の消失を意味する。このことは自然を改変することの業の深さを感じずにはいられない。

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2012年1月26日 (木)

「ことばとは何か」田中克彦

「ことばとは何か」田中克彦 読了。

本書は、言語学者による「何がおもしろくて言語学をやっているのか」の自問自答が著されている。

言語学は、何とかして言語をとりおさえ、正体を見きわめようとして、次々に新しい理論と方法を提示すると、とたん別の大切なものを追い出し、かえって本質を見逃してしまう。
シュライヒャーは言語そのものの変化の法則を手に入れようとして「人間」を追放した。
ソシュールは言語の構造を共時態(サンクロニー)でとらえようとして、意識的変化に目をつぶった。(はじめにより)

本書を読んでも、言語学について、わかったこと以上に、よりわからないことのほうが多くなる印象を持つかもしれないが、それは本書にとっては成功である。なぜなら言語学という学問自体が冒険であり、冒険である以上、とどまることを知らないからである。(あとがきより)

言語は、民族、国家、哲学、歴史学、生理学、認識心理学など多様な分野からの視点で論じることが可能であり、言語学とひとくくりにするのは大変難しいことがわかる。また本書では古典的な言語学史も知ることができる。
たしかに言語学とは、なんだかよくわからない、笑。

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2012年1月21日 (土)

「唯脳論」養老孟司 

「唯脳論」養老孟司 読了。

「現代とは、要するに脳の時代である。社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。」
この「はじめに」を読んで衝撃を受けた。
解剖学者は語る。

私たちは「構造」と「機能」をごちゃ混ぜにする傾向にある。血液の循環が心臓の「機能」であるのと同じく、心とは脳の「機能」である。「機能」は「構造」と対応関係にある。

心とは?世界とは何か?と考える時、論理的整合性を持たせようととすると「心は脳の産物である」「世界は脳の産物」であると結論してしまうが、唯脳論では解釈は多様であり、多様な解釈それ自体に脳の特性を見出している。思考そのものが脳で行っている以上どんな解釈も真理も多様であり可能と考えられる。

また、脳の構造は刻一刻変化しており、脳の構造の変化と共に真理の解釈は変化する。脳の構造とは神経系全体を含み抹消神経は身体中に張り巡らされている、そうした面からすると唯脳論は身体一元論と言える。

知覚系は本来認識の関わるものである以上、「認識論」とはまさしく「知覚系の哲学」である。それに対して、実践哲学やら倫理やらが発生してくるのは運動系が関与するからである。


脳の「構造」から「機能」である心を理解しようとした「唯脳論」は脳科学のさきがけの様に思える。しかし脳科学はいまだ、まとまった成果は報告されていないようである。
数年後にまた読み返したくなる一冊。

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2012年1月13日 (金)

チベット旅行

2011年12月29日から1月11日までチベット旅行に行きました。

成都から青蔵鉄道でラサへ入り、自動車でエベレストの麓までいってきました。
チベットは1950年代に中国政府による侵攻を受け、以降中国に従属しています。
また、仏教への迫害、宗教家の虐殺は熾烈で、いまだに中国政府に叛意を示し焼身自殺する僧は絶えません。
そのように多く問題を抱えたチベットを自分の目で見、何を感じるか、どうしても行っておきたかったのです。

(2012年1月7日の日記 ラサにて)
ラサ市内には警察、軍隊、治安維持隊が闊歩し、市中を監視している。
一見なにごともないアジアの中規模都市のようであるが、その部分だけは異常である。
現在のラサ市は中国文化や漢民族の同化が進み、ほとんど分離不可に見える。
もうすでに中国と言っていいだろう。

類推される事例として、諫早湾の干拓事業が思い出される。
改変された環境に順応し、既得権を得てしまえば「いまさら元に戻せはないだろ」と言われてしまう。
多くのチベット人は便利な暮らしの中で既得権を得ている。
「チベットらしくしろ」というのは外国人のエゴだろう。
民族同化という中国政府の当初の目論みどおりになっている。
チベット文化はそのうち中国に飲み込まれる、同化するか又は異質の何か別のものになるだろう。

ここでもう一つの類推が思い浮かぶ。
グローバルリズムにさらされる日本文化である。
チベット文化も日本文化も、その蓄積された知恵や知識が消滅してしまうのは、個人的には非常に悲しいのだが。
おおきな流れに、誰もさからうことはできない。

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冬のエベレスト


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2011年12月26日 (月)

「チベット侵略鉄道」アブラム・ラストガーデン著 

「チベット侵略鉄道」アブラム・ラストガーデン著 戸田裕之訳 読了。

来週に青蔵鉄道に乗るので、旅の予習をしてみた。

チベット青蔵鉄道の建設にかかわった様々な人物の目線から記述され、この鉄道の全体像を炙り出している。主題として以下の2つに絞られる。
(1)5000m級の高高度に鉄道を敷設する困難(融解点ぎりぎりの永久凍土に再三阻まれる)、さらに独裁的な社会主義体制に由来する現場環境の劣悪さ。

(2)中国政府によるチベット侵略、文化破壊、搾取の実体。1951年の中国人民解放軍によるラサ制圧以降、多くのチベット人が虐殺され、伝統的な宗教や仕事や生活スタイルの放棄を強制されている。鉄道の完成はチベット民族と漢民族の希釈を目的のひとつとし、チベット文化の絶命の一撃と言える。

永久凍土の上を走る鉄道は地球温暖化による温度上昇を考慮しているが、その見込み温度が甘過ぎるようだ。抑えられた予算の中では、問題が発生してから修復するという方法が採用されている。今後大きな鉄道事故もありえるが、報道されない可能性が高い。

本書では中国社会主義国家体制の内部も透けてみえてくる。
「ナショナリズムという言葉は両刃の剣である。ナショナリスティックなアピールに使えば人々を味方につけられるように思われるが、指導者はその言葉が醸成した国民感情に縛られ、問題に対応するとこに柔軟性を欠くことになる」(RAND研究所報告書)チベット問題は5分で解決できる、それが出来ないのは自らのプロパガンダでがんじがらめになっているからだ、と指摘する。

中国側の言い分もある、「国際社会は偽善的である、なぜチベットが他の世界のように発展すべきではないのか?鉄道に反対する者たちはグッチの靴を履き、デザイナーブランドの服を着て、旅客機で世界を飛び回り、最先端の幸福を宣伝しているではないか。」これには考えさせられる、しかしチベット人の現状を見ると、北京や漢民族の発展であってチベット人の発展ではない。

終盤に登場する若いチベット人の話が印象的だった。「いろんな点がよくなったのは喜ばしいとこだ。だが、失われたものも多くあるのが悲しい。発展というのは個人がどれだけ金を持っているかということだけじゃない。どれだけ社会が豊かかということでもあるんだ。そして同時に、人々がどういう姿勢でどういう価値観を持ち、何を信じているかということでもある。」

民族とは何か?と考えたりグローバル化問題を考えるうえで、対岸の火事ではない。

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2011年12月 5日 (月)

「経済学の哲学」伊藤邦武

「経済学の哲学」伊藤邦武 読了。
私がこの本を手にした理由は明確だ。
経済が人にとって悪影響を及ぼしていると感じているからだ。
本来人々に豊な生活を与えてくれる「経済」が制御不能に陥り、暴走していると感じるからだ。
「経済」「資本主義」「市場原理」とはなんなのか?また、どうあるべきなのか?

本書はエコロジー思想先駆者である19世紀の哲学者ラスキン等の先人による価値体系を辿ることで、現代が抱えるエコロジー、エコノミーの諸問題へのヒントを見出そうとする。

デビット・リガード(1772~1823)によると、社会は放っておけば自然に利潤を下げる方向に向い、その結果として経済は「定常状態」へと落ち着いてしまう。そこで継続的拡大には外部からの刺激要因を必要とする。具体的には経済の拡大のためには自由貿易にもとづく外国との交易が必要であるという自由貿易論とという形で表現される。

トマス・カ−ライル(1795~1881)彼の見方は人間は「労働」によって物質的充足を目指すのではなく、道徳的本性を表現する存在であった。「自由放任」の政府とは、人々の働く権利否定し、快を享受する権利へとすりかえている。「最大多数の最大幸福」という考えは、カーライルにとっては倫理的に反対すべき思想であり、形而上学的に間違った人間像を流布するものだった。

ジョン・ラスキン(1819~1900)の考えでは「需要、労働、消費、価格」という経済学の柱となる概念はすべて「われわれの生」のなかで実際の志向と願望という精神的観点から捉えられるべきである。
ベンサムやミルの功利主義者が唱える「最大多数の最大幸福」の原理は「最大多数の高潔にして幸福な人間」という新しい原理に取って代わられる必要がある。

マハトマ・ガンディー(1869〜1948)非暴力は暴力を振るう力を十分にもつ者が、その意思的な自己否定によって、暴力の行使により生じる小さな自我、弱い自分への堕落を防ぐことであり、あくまでも眼目は自分の意思に基づく自己の浄化という点にある、より大きな自我への回帰ということを意味している。

エコロジー思想の歴史は道徳性や大きな自我への志向など、精神論に帰結するように思える。しかし、この精神論こそが王道であり、現代においては益々強調されるべきなのだろう。「自然と環境の健全性や混乱は、人間社会の価値の追求姿勢の健全・異常の鏡である」という考え方へと移行していかなくてはならない。


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2011年11月27日 (日)

「日本の大逆転」中沢新一

「日本の大逆転」中沢新一。

人類の歴史を通史し、現在を第八エネルギー革命と位置づける。
原子力発電は、「小さな太陽」であり、光合成などを介さない無媒介の過激なエネルギーであり制御は不可能。

自然エネルギーへの転換は、新しい現実を理解するために、新しい思考法の開発が必要、いまの経済学にはこの現象を正しく理解するための科学的方法は存在しない。
第五次エネルギー革命(産業革命の時代)以降、徹頭徹尾「モダン」な思考法によって固められているため、なにか新しい現実が出現してくるとき、これまでの正統派経済学のやり方では、新しい現実そのものを否定して、古い思考法に適合する現実だけを現実として認める、という態度に陥りかねない。

「資本主義」と「原子力技術」と「一神教」は類似性が高い。
これらは外部の生態圏と切りはなし無媒介な状態で、閉鎖的な独自の活動(トーラス形状)になりやすい特徴を持つ。
第八エネルギー革命は切り離された媒介を、再び接続することである。
この外部との接続を筆者は「贈与」と呼ぶ。
資本主義やエネルギー資源や現代思想には「贈与」が枯渇している。
次世代のモデルは「贈与」との接続が不可欠であろう。

資本主義などのトーラスと、外部との接続を持つキアスム構造(インターフェース)が一体となったモデルが考えられる。
Photo
 
人の思考も無意識という外部に接続していくだろう、これはappleやgoogleなどが進めている方向性だろう。資本主義の命であるイノヴェーションは現代では無意識領域との境界面でしか、発生しなくなっている。「労働」によってはひきだすことができない。適度な休暇と自由な環境のなかでしか良い「贈与」はおこらない。

第一次産業は太陽と贈与変換の部分がとても大きな意味をもっているが、市場では農作物を「商品価値」に変えてしまい、正統派経済学では第一次産業は影が薄くなり、贈与的関係性がみえなくなっている。ここに贈与的関係を組み込んだ経済理論の必要性がある、原型があるとすると18世紀フランスのフランソワ・ケネーのよる「フィジオクラシー」(重農主義)がある。

日本には外部との境界には、遮断力の強い壁ではなく、透過性にすぐれたインターフェースの仕組みが設けられてきた。外部からの力を幾重にも媒介をほどこしながら、内部に取り込んでいく仕組みである。堤防の雁行構造や「里山」など。
「里山」は自然のつくり出す複雑な秩序を制圧することがないようにできている。そこでは人間が農業をおこなったが、その同じ場所で生きる動物や植物の要求をも組み込みながら、人工と自然のハイブリットな秩序を形成することをめざされた。
この文明は転換する自然の理法にたえずさらされていたものだから、「世界は無常である」、と深く実感されていたのだった。

産業革命以降の大きな変革の時期にきている、非常にゆっくり(百年単位)ではあるが確実に変化せざる負えない。この変化を既存の思考法に捕われることなく見極めなければ、混乱は長びくのではないだろうか。キーワードは「贈与」を取り込むということなんだろうなあ。

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2011年11月 4日 (金)

最近、、

10月31日に日銀の8兆円規模の為替介入(円安誘導)があった。
4円程度円安に振れた。
今後の動きは全くわからない。

どちらのポジションもとらずにコミットしない方が静観できる。

為替は世界の状態を把握するのにとても良い指標のひとつだ。

中国のバブルの崩壊はそんなに遠くないみたいだ、地方でかなり無茶してるみたい。

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2011年10月31日 (月)

「純粋な自然の贈与」中沢新一 

「純粋な自然の贈与」中沢新一 読了。

著者の語り口は流れる歌のようだ、強弱があり旋律がある。
しかし霊的なものを表現しているので、うっかりするとオカルトの類と思われてしまうのが残念だ。
読者にはよく咀嚼してもらいたい。

人間の歴史を振り返ると、狩猟時代には人間の手で獲得できるものに堅固なものはなく、動物も植物も全て森の神からの「贈与」として贈られてきた。人間はそのような贈り物をしてくれる森の神の好意に答えて、さまざまな返礼をした。人間が自然にたいしていつも礼儀深く、感謝の気持ちをおこたらないかぎり、森の神は人間への贈与を続けてくれた。すべては「無」から「有」の世界に贈り物としてやってくる。

しかし人間は「死の恐れ」から農業を発達させ、文明を興し、商業を産み出した。
商業の誕生と同じく貨幣も誕生した、貨幣は贈与のように「無」から「有」をつくりだす能力を持っていない。「有」を別の「有」に変態させることができるだけだ。
「死の恐れ」が、とうとう「無」への開口部をふさいでしまう。

貨幣の根本原理である等価交換は、それだけでは余剰価値を産み出さない。等価交換から資本(余剰価値)は発生するのは、労働者が産み出す「無」からの「労働力」やフィジオクラット(重農派)の概念である「純粋な自然の贈与」によって可能となる。

人々は太古から「無からの贈与」に対し感謝を現し祭りを催してきた、クリスマスも同様の起源を持つ。

自分は貨幣の価値に疑問がある。「無からの贈与」を見直す必要があるだろう。

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