2012年1月27日 (金)

「川の蛇行復元」 中村太士編

「川の蛇行復元」 中村太士編 読了。

我が国では、戦後の高度成長期(1950~1960年代)に大規模な捷水路工事(ショートカット)や築堤工事が行われ、全国の河川は大きな変貌を遂げた。
これにより河川の形態にも変化が生じている、河床低下が発生し、澪筋は固定され、生態系の多様性も失われつつある。災害防止や土地利用を優先した計画には必ずその代償がある。
本書は北海道の標津川における、工事により直線化された河川を蛇行河川へと復元する事業の「技術的な検討の要約」といえる。
この事業では直線化した河川と蛇行河川を連結し流路を二股にすることで、必要な河積断面を確保し、①防災と②環境復元の両立を図っている。これには連結部分に堰を造り河床高さを調整し、不均一な流水量を振り分けるという非常に繊細な作業が必要となる。モニタリングの継続とフィードバックの繰り返しも必要となるのだろう。
本書は流域における窒素循環、カワシンジュガイやドーベンコウモリの生態などトピックスは幅広い。その幅広さは、この河川について、全てを記述し切れないということを物語っている。

分断された蛇行河川では40年あまりの歳月を経て、新たに多様な生態系を構築しており、再蛇行化はその生態系の消失を意味する。このことは自然を改変することの業の深さを感じずにはいられない。

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2012年1月26日 (木)

「ことばとは何か」田中克彦

「ことばとは何か」田中克彦 読了。

本書は、言語学者による「何がおもしろくて言語学をやっているのか」の自問自答が著されている。

言語学は、何とかして言語をとりおさえ、正体を見きわめようとして、次々に新しい理論と方法を提示すると、とたん別の大切なものを追い出し、かえって本質を見逃してしまう。
シュライヒャーは言語そのものの変化の法則を手に入れようとして「人間」を追放した。
ソシュールは言語の構造を共時態(サンクロニー)でとらえようとして、意識的変化に目をつぶった。(はじめにより)

本書を読んでも、言語学について、わかったこと以上に、よりわからないことのほうが多くなる印象を持つかもしれないが、それは本書にとっては成功である。なぜなら言語学という学問自体が冒険であり、冒険である以上、とどまることを知らないからである。(あとがきより)

言語は、民族、国家、哲学、歴史学、生理学、認識心理学など多様な分野からの視点で論じることが可能であり、言語学とひとくくりにするのは大変難しいことがわかる。また本書では古典的な言語学史も知ることができる。
たしかに言語学とは、なんだかよくわからない、笑。

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2012年1月21日 (土)

「唯脳論」養老孟司 

「唯脳論」養老孟司 読了。

「現代とは、要するに脳の時代である。社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。」
この「はじめに」を読んで衝撃を受けた。
解剖学者は語る。

私たちは「構造」と「機能」をごちゃ混ぜにする傾向にある。血液の循環が心臓の「機能」であるのと同じく、心とは脳の「機能」である。「機能」は「構造」と対応関係にある。

心とは?世界とは何か?と考える時、論理的整合性を持たせようととすると「心は脳の産物である」「世界は脳の産物」であると結論してしまうが、唯脳論では解釈は多様であり、多様な解釈それ自体に脳の特性を見出している。思考そのものが脳で行っている以上どんな解釈も真理も多様であり可能と考えられる。

また、脳の構造は刻一刻変化しており、脳の構造の変化と共に真理の解釈は変化する。脳の構造とは神経系全体を含み抹消神経は身体中に張り巡らされている、そうした面からすると唯脳論は身体一元論と言える。

知覚系は本来認識の関わるものである以上、「認識論」とはまさしく「知覚系の哲学」である。それに対して、実践哲学やら倫理やらが発生してくるのは運動系が関与するからである。


脳の「構造」から「機能」である心を理解しようとした「唯脳論」は脳科学のさきがけの様に思える。しかし脳科学はいまだ、まとまった成果は報告されていないようである。
数年後にまた読み返したくなる一冊。

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2012年1月13日 (金)

チベット旅行

2011年12月29日から1月11日までチベット旅行に行きました。

成都から青蔵鉄道でラサへ入り、自動車でエベレストの麓までいってきました。
チベットは1950年代に中国政府による侵攻を受け、以降中国に従属しています。
また、仏教への迫害、宗教家の虐殺は熾烈で、いまだに中国政府に叛意を示し焼身自殺する僧は絶えません。
そのように多く問題を抱えたチベットを自分の目で見、何を感じるか、どうしても行っておきたかったのです。

(2012年1月7日の日記 ラサにて)
ラサ市内には警察、軍隊、治安維持隊が闊歩し、市中を監視している。
一見なにごともないアジアの中規模都市のようであるが、その部分だけは異常である。
現在のラサ市は中国文化や漢民族の同化が進み、ほとんど分離不可に見える。
もうすでに中国と言っていいだろう。

類推される事例として、諫早湾の干拓事業が思い出される。
改変された環境に順応し、既得権を得てしまえば「いまさら元に戻せはないだろ」と言われてしまう。
多くのチベット人は便利な暮らしの中で既得権を得ている。
「チベットらしくしろ」というのは外国人のエゴだろう。
民族同化という中国政府の当初の目論みどおりになっている。
チベット文化はそのうち中国に飲み込まれる、同化するか又は異質の何か別のものになるだろう。

ここでもう一つの類推が思い浮かぶ。
グローバルリズムにさらされる日本文化である。
チベット文化も日本文化も、その蓄積された知恵や知識が消滅してしまうのは、個人的には非常に悲しいのだが。
おおきな流れに、誰もさからうことはできない。

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冬のエベレスト


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2011年12月26日 (月)

「チベット侵略鉄道」アブラム・ラストガーデン著 

「チベット侵略鉄道」アブラム・ラストガーデン著 戸田裕之訳 読了。

来週に青蔵鉄道に乗るので、旅の予習をしてみた。

チベット青蔵鉄道の建設にかかわった様々な人物の目線から記述され、この鉄道の全体像を炙り出している。主題として以下の2つに絞られる。
(1)5000m級の高高度に鉄道を敷設する困難(融解点ぎりぎりの永久凍土に再三阻まれる)、さらに独裁的な社会主義体制に由来する現場環境の劣悪さ。

(2)中国政府によるチベット侵略、文化破壊、搾取の実体。1951年の中国人民解放軍によるラサ制圧以降、多くのチベット人が虐殺され、伝統的な宗教や仕事や生活スタイルの放棄を強制されている。鉄道の完成はチベット民族と漢民族の希釈を目的のひとつとし、チベット文化の絶命の一撃と言える。

永久凍土の上を走る鉄道は地球温暖化による温度上昇を考慮しているが、その見込み温度が甘過ぎるようだ。抑えられた予算の中では、問題が発生してから修復するという方法が採用されている。今後大きな鉄道事故もありえるが、報道されない可能性が高い。

本書では中国社会主義国家体制の内部も透けてみえてくる。
「ナショナリズムという言葉は両刃の剣である。ナショナリスティックなアピールに使えば人々を味方につけられるように思われるが、指導者はその言葉が醸成した国民感情に縛られ、問題に対応するとこに柔軟性を欠くことになる」(RAND研究所報告書)チベット問題は5分で解決できる、それが出来ないのは自らのプロパガンダでがんじがらめになっているからだ、と指摘する。

中国側の言い分もある、「国際社会は偽善的である、なぜチベットが他の世界のように発展すべきではないのか?鉄道に反対する者たちはグッチの靴を履き、デザイナーブランドの服を着て、旅客機で世界を飛び回り、最先端の幸福を宣伝しているではないか。」これには考えさせられる、しかしチベット人の現状を見ると、北京や漢民族の発展であってチベット人の発展ではない。

終盤に登場する若いチベット人の話が印象的だった。「いろんな点がよくなったのは喜ばしいとこだ。だが、失われたものも多くあるのが悲しい。発展というのは個人がどれだけ金を持っているかということだけじゃない。どれだけ社会が豊かかということでもあるんだ。そして同時に、人々がどういう姿勢でどういう価値観を持ち、何を信じているかということでもある。」

民族とは何か?と考えたりグローバル化問題を考えるうえで、対岸の火事ではない。

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2011年12月 5日 (月)

「経済学の哲学」伊藤邦武

「経済学の哲学」伊藤邦武 読了。
私がこの本を手にした理由は明確だ。
経済が人にとって悪影響を及ぼしていると感じているからだ。
本来人々に豊な生活を与えてくれる「経済」が制御不能に陥り、暴走していると感じるからだ。
「経済」「資本主義」「市場原理」とはなんなのか?また、どうあるべきなのか?

本書はエコロジー思想先駆者である19世紀の哲学者ラスキン等の先人による価値体系を辿ることで、現代が抱えるエコロジー、エコノミーの諸問題へのヒントを見出そうとする。

デビット・リガード(1772~1823)によると、社会は放っておけば自然に利潤を下げる方向に向い、その結果として経済は「定常状態」へと落ち着いてしまう。そこで継続的拡大には外部からの刺激要因を必要とする。具体的には経済の拡大のためには自由貿易にもとづく外国との交易が必要であるという自由貿易論とという形で表現される。

トマス・カ−ライル(1795~1881)彼の見方は人間は「労働」によって物質的充足を目指すのではなく、道徳的本性を表現する存在であった。「自由放任」の政府とは、人々の働く権利否定し、快を享受する権利へとすりかえている。「最大多数の最大幸福」という考えは、カーライルにとっては倫理的に反対すべき思想であり、形而上学的に間違った人間像を流布するものだった。

ジョン・ラスキン(1819~1900)の考えでは「需要、労働、消費、価格」という経済学の柱となる概念はすべて「われわれの生」のなかで実際の志向と願望という精神的観点から捉えられるべきである。
ベンサムやミルの功利主義者が唱える「最大多数の最大幸福」の原理は「最大多数の高潔にして幸福な人間」という新しい原理に取って代わられる必要がある。

マハトマ・ガンディー(1869〜1948)非暴力は暴力を振るう力を十分にもつ者が、その意思的な自己否定によって、暴力の行使により生じる小さな自我、弱い自分への堕落を防ぐことであり、あくまでも眼目は自分の意思に基づく自己の浄化という点にある、より大きな自我への回帰ということを意味している。

エコロジー思想の歴史は道徳性や大きな自我への志向など、精神論に帰結するように思える。しかし、この精神論こそが王道であり、現代においては益々強調されるべきなのだろう。「自然と環境の健全性や混乱は、人間社会の価値の追求姿勢の健全・異常の鏡である」という考え方へと移行していかなくてはならない。


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2011年11月27日 (日)

「日本の大逆転」中沢新一

「日本の大逆転」中沢新一。

人類の歴史を通史し、現在を第八エネルギー革命と位置づける。
原子力発電は、「小さな太陽」であり、光合成などを介さない無媒介の過激なエネルギーであり制御は不可能。

自然エネルギーへの転換は、新しい現実を理解するために、新しい思考法の開発が必要、いまの経済学にはこの現象を正しく理解するための科学的方法は存在しない。
第五次エネルギー革命(産業革命の時代)以降、徹頭徹尾「モダン」な思考法によって固められているため、なにか新しい現実が出現してくるとき、これまでの正統派経済学のやり方では、新しい現実そのものを否定して、古い思考法に適合する現実だけを現実として認める、という態度に陥りかねない。

「資本主義」と「原子力技術」と「一神教」は類似性が高い。
これらは外部の生態圏と切りはなし無媒介な状態で、閉鎖的な独自の活動(トーラス形状)になりやすい特徴を持つ。
第八エネルギー革命は切り離された媒介を、再び接続することである。
この外部との接続を筆者は「贈与」と呼ぶ。
資本主義やエネルギー資源や現代思想には「贈与」が枯渇している。
次世代のモデルは「贈与」との接続が不可欠であろう。

資本主義などのトーラスと、外部との接続を持つキアスム構造(インターフェース)が一体となったモデルが考えられる。
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人の思考も無意識という外部に接続していくだろう、これはappleやgoogleなどが進めている方向性だろう。資本主義の命であるイノヴェーションは現代では無意識領域との境界面でしか、発生しなくなっている。「労働」によってはひきだすことができない。適度な休暇と自由な環境のなかでしか良い「贈与」はおこらない。

第一次産業は太陽と贈与変換の部分がとても大きな意味をもっているが、市場では農作物を「商品価値」に変えてしまい、正統派経済学では第一次産業は影が薄くなり、贈与的関係性がみえなくなっている。ここに贈与的関係を組み込んだ経済理論の必要性がある、原型があるとすると18世紀フランスのフランソワ・ケネーのよる「フィジオクラシー」(重農主義)がある。

日本には外部との境界には、遮断力の強い壁ではなく、透過性にすぐれたインターフェースの仕組みが設けられてきた。外部からの力を幾重にも媒介をほどこしながら、内部に取り込んでいく仕組みである。堤防の雁行構造や「里山」など。
「里山」は自然のつくり出す複雑な秩序を制圧することがないようにできている。そこでは人間が農業をおこなったが、その同じ場所で生きる動物や植物の要求をも組み込みながら、人工と自然のハイブリットな秩序を形成することをめざされた。
この文明は転換する自然の理法にたえずさらされていたものだから、「世界は無常である」、と深く実感されていたのだった。

産業革命以降の大きな変革の時期にきている、非常にゆっくり(百年単位)ではあるが確実に変化せざる負えない。この変化を既存の思考法に捕われることなく見極めなければ、混乱は長びくのではないだろうか。キーワードは「贈与」を取り込むということなんだろうなあ。

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2011年11月 4日 (金)

最近、、

10月31日に日銀の8兆円規模の為替介入(円安誘導)があった。
4円程度円安に振れた。
今後の動きは全くわからない。

どちらのポジションもとらずにコミットしない方が静観できる。

為替は世界の状態を把握するのにとても良い指標のひとつだ。

中国のバブルの崩壊はそんなに遠くないみたいだ、地方でかなり無茶してるみたい。

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2011年10月31日 (月)

「純粋な自然の贈与」中沢新一 

「純粋な自然の贈与」中沢新一 読了。

著者の語り口は流れる歌のようだ、強弱があり旋律がある。
しかし霊的なものを表現しているので、うっかりするとオカルトの類と思われてしまうのが残念だ。
読者にはよく咀嚼してもらいたい。

人間の歴史を振り返ると、狩猟時代には人間の手で獲得できるものに堅固なものはなく、動物も植物も全て森の神からの「贈与」として贈られてきた。人間はそのような贈り物をしてくれる森の神の好意に答えて、さまざまな返礼をした。人間が自然にたいしていつも礼儀深く、感謝の気持ちをおこたらないかぎり、森の神は人間への贈与を続けてくれた。すべては「無」から「有」の世界に贈り物としてやってくる。

しかし人間は「死の恐れ」から農業を発達させ、文明を興し、商業を産み出した。
商業の誕生と同じく貨幣も誕生した、貨幣は贈与のように「無」から「有」をつくりだす能力を持っていない。「有」を別の「有」に変態させることができるだけだ。
「死の恐れ」が、とうとう「無」への開口部をふさいでしまう。

貨幣の根本原理である等価交換は、それだけでは余剰価値を産み出さない。等価交換から資本(余剰価値)は発生するのは、労働者が産み出す「無」からの「労働力」やフィジオクラット(重農派)の概念である「純粋な自然の贈与」によって可能となる。

人々は太古から「無からの贈与」に対し感謝を現し祭りを催してきた、クリスマスも同様の起源を持つ。

自分は貨幣の価値に疑問がある。「無からの贈与」を見直す必要があるだろう。

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2011年10月26日 (水)

1ドル=75円73銭

25日、1ドル=75円73銭と戦後最高値を更新。

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2011年10月20日 (木)

「日本語と日本人の心」大江健三郎、河合隼雄、谷川俊太郎

「日本語と日本人の心」大江健三郎、河合隼雄、谷川俊太郎 読了。

1995年に行われたセミナーにおける、講演とパネルディスカッションの記録である。
各界で著名な、小説家と臨床心理士と詩人の組み合わせで、「日本語と創造」をテーマに語りあっている。
三者とも日本語を操ることを生業としているだけあり、独自の日本語論を展開する。しかし、共通項も多く興味深い。
日本語は「公的な言語」と「私的な言語」や「書き言葉」と「はなし言葉」の乖離が大きい。それが日本人の意識のありかたに影響を与えているだろう、機会があれば今後そこらへんを深めていきたい。

以下抜粋
(河合)
どこかでわれわれはずっとひっついている、ひとつなんだ、ということを前提の上にした言葉をぼくらは話している。なんか分けるのを嫌っている。

自然科学でわかるような現実を、これが現実だと思い込みすぎる人が多すぎる、現実というのはもっともっと層があって、多層的であって、そして自然科学というのはそのなかのひとつの層を見ているのだというのが私の考え方なのです。

日本には。そもそも相手に「ノー」を言わせないような話をずっと積み重ねていくような文化のほうが多い。

(谷川)
創造というのは必然的に破壊をふくんでいないと創造にはならない。
広い言葉の海の世界に、非常にきまりきった自分の狭い言葉を持っているのを、いったん破壊しないと、その広い海に帰っていけない。

(大江)
結局、言語表現は、ほんとうに肉体と結びついていると思います。そこでほんとうには翻訳はできないということを認識してあきらめる、明らかに認識する、断念するということも必要です。それも文学の理解ということのひとつのかたちではないかと思うのです。


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2011年10月 2日 (日)

「日本精神分析」柄谷行人

「日本精神分析」柄谷行人。読了。

柄谷によると、世界中の先進国の政治である社会民主主義は、(1)資本制(2)ネーション(共同体)(3)ステート(国家)の三位一体的構造である。つまり「経済的に自由にふるまい、そのことが階級的対立や諸矛盾をもたらすとき、それを国民の相互扶助的な感情によって越え、議会を通して国家権力によって規制し富を再分配する」ということを示す。
資本制による悪影響(環境汚染等)によりこの構造を早く脱却しなくてならないのだが、この三位一体構造をくずすのは難しく、封建社会以降これに変わる構造は発明されてない。
柄谷はアソシエーションにより三位一体構造からの変革を提案する。アソシエーションとは資本主義的な市場経済の上に相酬的・相互扶助的な交換(地域貨幣等)を回復する、この交換原理を広げることで上記の三位一体構造は数世紀かけ消滅する。
アソシエーションによる効果はなかなか難しいと思われるが、三位一体構造の限界が見え始めている現在、現状の把握と智慧を出し合うことは急務だろう。
(危機を言い立てる人はいるが、代案を提案できる人はあまりいない。)

第二章の表題でもある「日本精神分析」は多くの気づきを与えてくる。
『たとえば、漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、だからこそ、何を受け入れても構わないのです。外来的な観念は、所詮漢字やカタカナとして表記上区別される以上、恐れる必要はない。それらは本質的に内面化されることもなく、また、それに対する抵抗もない。不必要だとみなされれば、たんに脇に片ずけられるだけです。結果として、日本には外来的なものがすべて保存されるということになる。』(p78抜粋)
『宣長は仏教や儒教のような偉大な観念が日本にもあったなどとはいわないのです。むしろ日本には知的・道徳的なレベルでは何もオリジナルなものはなかった、ただ知的・道徳的原理によって否定され隠蔽されてしまう小さな感情(もののあはれ)を大切にするのが、やまと魂だというわけです。
ー中略ー
宣長は日本語が漢語より優れているのは、テニヲハがあるからだといいます。ほとんどの概念は漢字で書けますが、テニヲハのような助詞はそうできない。ここには何の価値のある内容もふくまれていない。にもかかわらずそのような「辞」には、概念にならないような微妙な感情や情緒が示されている。いわば、それだけがやまとだ。』(p88抜粋)

実は日本人は外来のものを内面的には何も取り入れていない、それは記述言語に明確に示されている。という着想は非常におもしろい。

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2011年9月19日 (月)

「魔術から数学へ」森毅

「魔術から数学へ」森毅 著。

本著作は数学の本ではなく、数学的世界像を創りあげた偉人たちが主役の本といえるだろう。
その偉人たちは時に、魔術師や占星術師や錬金術師または宗教家という名で呼ばれた。
筆者が偏愛する17世紀ルネッサンスの混沌としたヨーロッパには、現在の数学的世界像を形づけた魔術師たちが活躍していた。
著者が語る偉人達(ガリレイ、ケプラー、デカルト、ライプニッツ、ニュートンなど)は、それぞれの性格や時代背景を想像させとても人間臭く描かれている。これほど彼らを身近に感じたことはなかった、筆者の博識と篤い情感を感じることができる。
本書では、楽しく思想史と数学史の理解を深めることができるのではないだろうか。

やはりニュートンは傑出したスーパースターであった。
また錬金術に傾倒し厖大な研究を行っていたのは驚いた。
最後に女嫌いのニュートンの言葉を採録する。「学問とは際限なく訴訟の好きな女のようなものだ」

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2011年9月 6日 (火)

"KWAIDAN" by Lafcadio Hearn.

"KWAIDAN" by Lafcadio Hearn.

Hearn was born in Greece on 1850,he came to Japan at 1890.
He loved Japanese culture and a climate,sometime than native Japanese.

"KWAIDAN" were traditional horror and strange stories,"THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI" is most famous story in them.

My favorite story is "A DEAD SECRET".

A long time ago,a family lived ,their are husband and wife and a child.
but wife fell ill and died.
On after the funeral,She came back her room every night and she looked at the "tansu" in silence.
Husband invited the famous Priest to his house .the priest thought "what can she want?" and probe the"tansu".
The priest found out a love-letter .It was the other men who written it for the wife in the her student age.
The priest keep secret and burn letter.
the wife never appear after.

This story had expressed "HAJI" ,It is virtue of japanese women.


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2011年9月 1日 (木)

「1Q84」村上春樹

「1Q84」村上春樹 読了。

村上春樹の小説がはじめて面白いと感じた。
10年前と比べ、自分の世界が拡がったことを気づかせてくれた。

本書は作中の言葉をかりると「多義的で暗示的」である。
読み手ひとりひとりに多様な解釈をさせ、各自が自分に向けられた暗黙のメッセージを受信する。

ストーリーが進むにつれ幻想的な世界に引き込まれる。
実際に月が二つあるのではないかと、何度か夜空を見上げたりもした。

こういうラブストーリもいいね。

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2011年8月28日 (日)

「マルクスその可能性の中心」柄谷行人

「マルクスその可能性の中心」柄谷行人 読了。

自分はマルクスについてはほとんど知らない、著名であるが思想の容貌は見えずらい。柄谷行人をガイドにその思想を理解しようと試みる。

マルクスやニーチェはもともと「異質」なものが「価値は同一」とみなす「等価形態」をとるのかを疑う。
『「人間の平等」は、貨幣経済の産物なのだが、「貨幣」の謎は問われたことがない。それを問うことは、貨幣という「唯一者」(神)の根拠を問うことになる。』(p48引用)
つまり資本主義(貨幣)であれ宗教(神)であれ、ものに「価値」をあたえるのは幻想である。
『マルクスは「人間は等しい」という考えはアプリオリな心理なのではなく、それ自体「商品形態が労働生産の一般的であるような社会」においてはじめて可能だというのである。つまり、同質の人間的労働なるものは、はじめからあるのではなく、貨幣経済の拡大のなかであらわれるのだ。』(p49引用)

ソシュールは言語学と「貨幣」とを類似させる。
『ソシュールにならっていえば、相対的価値形態は「シニフィエ(意味されるもの)」、等価形態は「シニフィアン(意味するもの)」であり、これらの結合としての価値形態が記号(シーニュ)なのである。(p35引用)
『この「総体的にまたは拡大された価値形態」において、相対的価値形態と等価形態はけっして固定的な関係をとらない。いいかえれば「価値」なるものはなく、相異なる使用価値の関係が、もつと正確にいえば「差異」のたわむれが根底にあるだけなのだ。』(p39引用)
貨幣を言語との関係で類推すると、そこには脱中心化の構造があぶり出される、そのような構造主義も筆者は「二分法」や「形而上学」にとらわれていると示唆する。

本書を通じて何か理解したと思ってもそれはただの中心化でありイデオロギーにすぎない。私たちの思考はある固定点なしには思考できないようだ。
『イデオロギーとは「真の意識」あるいは「真理」なのだ。あるいはイデオロギーは「客観性」としてあるのみだ。それゆえに、イデオロギーとはむしろ物なのである。それがマルクスが「資本論」において、商品という物の奇怪さを説いた理由であり、「資本論」もまた一種のイデオロギー論なのである。逆に「資本論」からみないと、イデオロギーが何たるかを理解できない。「イデオロギーの終焉」という言葉が、“客観的”な科学者から説かれるとき、彼らの客観性そのものがすでに物象化の上にあること、それこそがマルクスのいう意味でのイデオロギーだということを知るべきである。トーマス・クーンが科学史の領域で明らかにしたように、真理は客観的なデータによって確立されるのではなく、それを真理とする認識論的パラダイムが逆にデータを見出せるのである。』(p101引用)

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2011年8月20日 (土)

ドル安と予兆。

1ドル75円95銭。(8月19日)

3月17日以来の最高値を更新。

ドルの失墜が加速している。

急激な変化は“恐慌”を予兆する。


「資本制経済が“正常”に機能しているかぎり、アダム・スミスのような理神論、あるいは理性の支配が成立する。
“正常”に機能しているかぎり、経済は自然であり自明のようにみえる。恐慌は一瞬のうちに、すべてが幻想の上に成り立つことを照らし出す。経済が物質的なものであるどころか、一つの幻想形態だということを開示する。“正常”な側面において資本制経済をみるという視点こそ、「資本論」において古典経済学への根底的批判を可能にし、それまでの「哲学史」総体の批判をはらむのである。」
(マルクスその可能性の中心 柄谷行人 p82)

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2011年8月14日 (日)

I can't stop..

I can't stop learned everything,my consciousness exchange never stop.

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2011年8月 8日 (月)

右翼

右翼(右派)とは超保守的であり、現状を全く変えたくない者たちの集団である。イコール 既得権益者。という構図が浮かび上がる。

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2011年7月30日 (土)

感動とは、

感動とは、価値観が変化したときに感じる感情。
まさに、感じ方が動くということなのだ。

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